27話「渋ければ渋いほど甘くなる、そんな幸せ!?」
一時は幸せになっても、崩れるんだ。
まさに「そらごとたわごと」だと知らされた
やっぱり絶望じゃないっすか(涙)
うん。これで終わってたら……絶望だよね
読まなきゃよかったとさえ、思ってしまう
ホントっすよ……
当然、そんな内容じゃない。歎異抄にはこう記されている――
「無碍の一道」とね
出た!
希望キタ―――!
「さわり」だらけの世は住みにくい
無碍の一道(むげのいちどう)……
そう、これだね(ノートを取り出す)
ムゲノイチドウ!
前も教えていただきましたよね
えっと〜……
「碍」が、ジャマするものって意味で……
「無碍」だから、「さわり」がなくなる?
ちがうだろ。さわりが、さわりのままで、さわりにならない、だろ
さわりがさわりの……? う〜、わからん!
はは、そりゃ難しいに決まってる。1番大事なところだからね
改めて見ていこう。まず、「さわり」だ
僕らすべてのヒトは、幸せになりたい
まぁ、不幸にはなりたくないですね……
あるいは……言い換えようか
人は自由になりたい。縛られたくない、好きに生きたい
ああ、最近多いフリーランスの生き方も、好きなことして生きていきたいからかな……
自由……掴みたい!
俺は自由だー!! フリーダム!!
うぉ!?
落ち着け! 捕まるぞ!
これは極端にしても(笑) なかなか実現させてくれないのが「さわり」だ
考えてみると、生きていくには、さわりだらけだ。……このことを、あの文豪が言ってるね?(チラ)
アレですね?(ニヤリ)
漱石の『草枕』。あまりに有名な一節だよ
賢く振る舞えば嫌われるし、かといって相手の顔色ばかりうかがってヘコヘコしてたら流されるだけ
それならばと、自分の意見を主張すると、今度は他の人と衝突する……
そうだね。
漱石の時代も今も変わってない……これだけ自由な今でさえも
僕らを縛る「さわり」の正体
……何が、僕たちを自由にさせないんだろう?
それを、仏教では「煩悩」と教えている。他でもない、僕たち自身の心なんだ
心……
南の島に旅行にいったとしよう。楽しい海での遊びに美味しい食事
最高すぎるな〜
でも、友だちとケンカして怒りの心いっぱいになったら?もう旅行どころじゃない
あ〜、あったな〜……
今の時代、自由にどこでだって働ける。好きなこともできる
でも、煩悩はなくなったかな
いや、なくなってないですね……
むしろ欲の満たしやすい時代でもある……
そうだよね。でも、それこそ、変わらない僕たちの姿なんだ
そんな煩悩のさわりは、変わらないままで、そのままで幸せになれる
それが無碍の一道なんだ
なくなるってコトじゃないんすね
考えてみてほしい。欲がなくなるってことがあるだろうか
食欲がなくなる……
睡眠欲がなくなる……
ありえないっすね!!
もはや、人ではなくなってしまう
ギリシアの政治家、カリクレスは言った
石や屍はいやだなあ……
ヒトとして生まれたからなあ
ヒトから煩悩がなくなるとは思えないですね
そう。無碍の一道は、煩悩をなくせとは言われず、あるままで救う世界なんだ
覚えてるかな?
こんなことあったら、いくらでも徹夜しますよ!
ちょうど、しぶーい柿が甘くなるのに似てるね。熟れて、渋がそのまま甘みに変化するんだ
ハチミツやら砂糖やらで、甘くしてるんじゃないんだよ
(シロップにでも漬けてんのかと思ってた……)
こうも喩えることができる。さわりの氷が大きければ大きいほど、溶けた時、幸せの水は多くなる
それが、無碍の一道なんだ
欲を満たす幸せとはワケがちがう。本当の自由なんだね
こういった絶対的な幸せが、歎異抄の中には、「摂取不捨の利益」とか、色々な言葉で語られてる
だから、知識人も魅了されたんだろうね
ん〜、でもやっぱわかったようなわからないような……
それはそうだ。僕らが知ってるものはすべて「相対(そうたい)」だからね
相対……?
(つづく)
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